現在、かつての甲子園の代表常連校だった「PL学園」の野球部が廃部の危機に瀕しています。
輝かしい栄光を誇り、数多くの名選手をプロに送り込んだ同校がどうしてこんなことになってしまったのか?
ここでそのここまでの「PL学園」の野球部の流れをわかりやすく順に紐解いていこうと思います。
現在の状況
これまでの記録!
- PL学園の春・夏の甲子園通算96勝(30敗)は、中京大中京(愛知、131勝)に次ぎ、龍谷大平安(京都)と並ぶ歴代2位。
- 優勝7度(春3度、夏4度)も中京大中京の11度に次いで松山商(愛媛)、広島商(広島)と並ぶ2位。1987年には春・夏連覇を達成。
輝かしい結果を残してきた同校ですが、
2016年夏の甲子園、大阪大会では PL学園2−9東大阪大柏原(2016年7月15日 花園球場) と2回戦で敗退してしまいました。
2016年春の甲子園 大阪大会では PL学園2-9太成学院大高 も初戦サヨナラコールド負け・・・(高校野球の地方大会では、決勝戦以外は5、6で回10点差、7、8回で7点差があるとのコールド規定があります。)
かつての強豪も今は見る影もなく、ここ最近の2大会では早々に敗退しています。
休部の原因
PL学園(大阪)は2016年2月、硬式野球部は夏の大会を最後に休部させる方針であるということを発表していましたが、2016年7月15日夏の甲子園、大阪大会での敗退により休部になってしまいました。
2009年の夏を最後に甲子園の出場がなく、その後成績は低迷していました。
野球部専用寮に付き人制度。現代にそぐわないシステムで続いていた同校野球部。
実は以前から暴力事件が起こっていました。
1986年にはいじめによる死亡事故、1997年には上級生から下級生への暴力事件、2001年には女子マネージャーへの性的暴力事件、2008年には再び暴力事件、2011年には暴力事件と喫煙があかるみになっていたのです。
そしてその後部が変わる大きなきっかけとなった、2013年2月に寮内で2年生部員4人が1年生部員に暴力を振るったという事件が起こってしまいました。
6カ月の対外試合禁止処分を受け、2013年4月に監督が退任。
その後は、就任した監督は野球経験がない校長。
実際に野球を教える事ができる監督の不在が続いていたのでした。
2015、2016年は新入部員の募集は行わなかったために戦力の補強もままならず。
そして2016年3月時点での前校長の定年退職に伴い新しく”最後の”監督となったのは同校剣道部OBの川上祐一監督、そして部員は3年生12人(故障者がでていたため実質10人)・・・
そのような状態での大会参加の結果だったという訳なのです。
来年の春も部員募集は見送られる見通しで、部員がゼロになってしまう今秋以降はこれまで練習に使われていた高校随一と言われた広さをほこるPL球場は学校の母体である教団に返却されることになっています。
休部とはいっていますが、実質廃部のように思われても仕方ありませんね。
同校OBには
松井稼頭央、桑田真澄、福留孝介、上重聡、立浪和義、(敬称略)などそうそうたるOBがいます。
桑田氏、上重アナ、前田らPLのOBコメント/大阪 – 高校野球 @nikkansportsさんから https://t.co/cPaTENSq6c #桑田真澄 #上重 #高校野球 #高校野球ハイライト #PL学園 #甲子園 #甲子園予選
— 日刊スポーツ (@nikkansports) 2016年7月16日
OBたちのコメントがなんとも言えませんね。
まとめ
成績の低迷
↓
内部への締め付け、ストレス拡散
↓
不祥事
↓
人材不足
↓
更に勝てない
このような負のスパイラルによって起こってしまった今回の事件。
このまま野球部が廃部なんてことにはならないで、ここから早く抜け出しかつてのワクワクするPL学園の野球をまた見たいものです。